カンタベリーとは
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もともとのカンタベリー(Canterbury)とはイギリスの地名なのです。
イングランド南東部のケント州東部に位置する大主教座都市で、人口は約42000人。
青銅器時代や新石器時代の遺跡が発見されており、これを証拠として
紀元前8500年前から10000年ほども昔のことで、それほど古い時代から人間が定住していた事になります。
また、ケルト人の首都もカンタベリーにあったとされています。
さらに時代が進むと、ローマ軍に占領され、その後街は要塞化されてラテン語で
Durovernum Cantiacorumと名付けられるのです。
5世紀中期ごろにはアングロ・サクソン人がカンタベリーを支配しますが、
6世紀の終わりごろからはグレートブリテン島ブリタニアにアングロ・サクソン人が諸王国を建国したのです。
ブリタニア伝道のため、教皇グレゴリウス1世の命を受けた修道士アウグスティヌスを
中心とした修道士団がカンタベリーに赴くのです。
そうして現在のケント州に当たるケント王国の王エセルバートが、修道士アウグスティヌス一行を
快く迎え入れたことから、このカンタベリーがブリタニア布教の拠点となったのです。
西暦601年、修道士アウグスティヌスが初代カンタベリー大司教に就任したのち、
カンタベリーはイングランドにおけるキリスト教の中心地となったのです。
その後はノルマンディー公ギヨームによるイングランド征服など、イングランドをさまざまな波乱が
襲いますが、、カンタベリーは着実に大司教座のある町として権威を高めていったのです。
11世紀の終わりごろには、ウィリアム2世と叙任権闘争を起こし大司教が亡命するのですが、
それだけに終わらず、その後もカンタベリー大司教トマス・ベケット、
裁判権を巡ってヘンリー2世と対立し亡命することになってしまいます。
トマス・ベケットは後に帰国するのだが、その際にカンタベリー大聖堂内の祭壇で
祈っているところをヘンリー2世の騎士に暗殺されてしまうのです。
ローマ教皇はトマス・ベケットを殉教した者として列聖し、
それ以降、カンタベリーは聖トマス・ベケット殉教の地とされたのです。
このことを1387年にジェフリー・チョーサーが「カンタベリー物語」として著しています。
今ではカンタベリー詣(もうで)と呼ばれる巡礼が行われるようになり、
毎年多くの巡礼者が訪れる地となっています。
1534年には、ヘンリー8世が離婚問題をきっかけに教皇と対立することになるのですが、
ヘンリー8世は「国王至上法」を発令し、カトリックと絶縁することになります。
しかし、当時のカンタベリー大司教がヘンリー8世の離婚を許可する独自の判断を下したため、
結果的にカンタベリー大司教はローマ教会から事実上分離し、独自の宗教路線を歩む事になったのです。
1559年にはエリザベス1世が「統一令」を発令し、カンタベリー大司教座はカンタベリー大主教座と
改名され、こうして英国国教会の総本山の得て、今に至るのです。
これがカンタベリー、そのものもの本来の意味です。